nature’s diary

日々感じていること・ボディートーク療法・心ヨガ・身体と心の話・

祈りの時間。

 

先日、車で帰宅途中に交差点で信号待ちをしていたら、目線の先に立ったりしゃがんだりしている二人の外国人男性がいた。

そこは回転寿司屋で、一階は駐車場、二階は店舗、その二人の外国人男性は一階の駐車場にいた。

最初は屈伸運動でもしているのかな?と思って見ていたら、彼らはしゃがむと、膝まずき、顔を地面に擦り付け、また起き上がりという一連の動作を繰り返していた。

そう、彼らは礼拝の時間にわざわざ店の外に出て、神に祈りを捧げていたのだ。

私は、こんな場所で!?と、とっても驚き、しばらく彼らを見ていた。

時間は13時55分頃だっただろうか。

 何の宗教にも属せず、あまり関心もない私だが、宗教によっては祈りの儀式があること、最近では空港やホテルにも礼拝室を設けられていることもニュースで知っていた。

でもまさか信号待ちでその儀式を目にするとは思いもしていなかった。

お寿司を食べようと駐車場に入ってきた人たちも驚いている様子だった。

 

 調べて見ると、日本にも沢山の宗教が存在している。

世界規模で見たらそれはもう数えることも出来ないほどの宗教があり、世界人口のほとんどの人が何かしらの宗教を信仰している。

きっと何にも属していない私の方が、世界の人から見たら珍しいのだろう。

駐車場で祈りを捧げていた男性たちも日々の祈りによって幸福への感謝の気持ちを体現しているのだと思うと、それぞれの考え、幸せの形を尊重しなければいけないなと思った。

日本にいるとなかなか感じることが出来ないけれど、世界中の人々はそれが当たり前であり、日常なのだ。

 

 

何万年前、何十万年前とも言われる太古の昔に生まれた宗教。

そして、そこから様々な種類の宗教ができ、これだけ文明が進化した2017年の今も、その教えが受け継がれている。

それは人間が超越した力や存在から守られ、助けられ、支えてもらっていると感じることが日常的で当たり前のことであり、人間の側にずっとあり続けるものだからなのだと思う。

宗教に属していない私でも、自分に何かが起きた時、何かを迫られた時は勿論のこと、それ以外でも自然とそうした力や存在を意識することはよくある。

 

人間が人間を超越したものへ思いを馳せるというのは、とても原始的だけど一番人間らしい部分のように思える。

きっとこれからもずっと、大きな力や存在はあり続けるのだろう。

 

 

松本先生。

 

私は中学の時、国語の松本先生の授業がとても楽しみだった。

先生は、当時既に白髪で歳はとっていたものの、教壇に立つ姿は若く、背筋がピシッと伸び、強い眼差しで生徒たち一人一人を見ながら、エネルギーのある声を教室に響かせていた。

かといって、堅苦しい授業ではなく、授業内容はバラエティーに富んでいて、毎回内容が異なり教科書があってないような授業だった。

そんな松本先生の源は、きっと太平洋戦争中、東南アジアの戦地で戦った経験にあるように思う。

授業では、戦時中の話にも度々触れることがあった。

その話は十代ちょっとの私にはとても想像できるような内容ではなかったけれど、小説を読んでいるような、とても興味深い話だった。

 

中学三年の卒業間近に、先生が私たちにカードを渡してくれた。

それは、今でも大切にとってある。

そこには、直筆で『今を生きろ!』と言うメッセージが書かれてあった。

戦争を体験し、明日があるか、ないか分からない時間を過ごした先生だからこそ出た言葉なのかもしれない。

 

最近、今を生きるって難しいことだなと思っていた。

私たちは、過去に起こったことを後悔したり、悔やんだり、恨んだりする。

そして、まだ起きていないことに対して不安になり、心配になりあれこれ労力を使う。

一日のうち、今この瞬間にどれだけ向き合っているだろうか…。

 

私自身も今を生きることはなかなか出来ていないけれど、仕事をしている時は唯一今を生きているような気持ちになれる。

クライアントさんに寄り添い、向き合うことは、今に集中していないと出来ないことだと思うからだ。

仕事を通して、今を生きろ!今を生きる!を体現出来たらいいなと思った時に、ふと松本先生のことを思い出した。

 

中学生の私に響いた言葉が、やっと何か意味を持とうとしているのだろうか。

 

 

 

目線。

うちの子は今2歳と4歳。

まだまだ危なっかしいことばかりで、家でも外でも、子どもが何をしているのか、危険なことはしていないか、常に子どもを見ながら動いている。
それは、イライラしたり、ヒヤヒヤすることがほとんどで疲れることばかり、たまに何も考えずにボーッとしたいなぁと思ってしまう。

しかし、観察していると子どもたちも親のことをよく見ていることが分かる。
どこにいるのか、何をしているのか、自分を見てくれているか、自分が嬉しかった時を見てくれているか…などなど。

たまに、パッと顔を上げて子どもの方を見ると目があったり、目線を感じることがある。
そうするといつもにっこり子どもたちは笑ってくれる。
そんな時、子どもはいつから私を見ていたんだろう…、何度も見て気付いて欲しかったのかなぁと何となく申し訳ない気持ちになる。

やらなければならないことも沢山あるし、ボーッとしたい時もある。
でも、見逃してしまっている子どもたちの素敵な表情や瞬間もあるんだろうなぁと。

全ては受け止められないけど、今しかない子どもたちとのアイコンタクトを大切にしたいなぁと思う今日この頃です。

自転車。

昨日、4歳の息子が独りで自転車に乗れるようになりました。

負けず嫌いの息子。
年下の女の子が、目の前をスイス~イと自転車で通り過ぎるのを見て、自分も!と練習を始めました。

息子も一生懸命でしたが、後ろで自転車を支え練習に付き合う私も必死でした。
時に汗だくになり、時に北風に吹かれながら、声を張り上げて公園を駆け回り…。


でも、昨日は素晴らしい瞬間に立ち合えて本当に良かった!

なんだか懐かしい記憶も甦りました。
私も父と練習したなぁ~。
練習の時は植え込みに何度も突っ込んで傷だらけになったなぁ~とか。
初めて公園の外を走った時、緊張して何度もブレーキかけてクタクタだったことも。

そんな私も自分の子どもが、転んでは起き上がり、何度もチャレンジする姿を見ることになるとは。
乗れた時の息子の何とも言えない笑顔と目の輝きは、今でも思い出されます。
もしかしたら、私の時も父はそれを見ていたのかなぁ…。

きっと、子どもの頃の私にとって、自転車に乗れたことは、とても嬉しいことだったのでしょう。
そして自分の子どもが自転車に乗れた時の感動が、子どもの頃の私の記憶を呼び起こしてくれたんだと思います。

感動は、面白い化学反応を起こしてくれるものですね。

ん~、私もまた何かに熱くチャレンジしようかなぁ~☆